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高津家の歴史

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当津家は遠く清和天皇の御代、即ち貞観八年正月十二日(今より約1113年前)勅命を奉じて仁徳天皇の御盛徳を仰ぎ、天皇ゆかりの浪速の地に社地を選定し、神殿の創建に尽せし伊予権の守橘朝臣良墓が当家の祖先であります。(時の将軍足利義教公古文書にても明かなり)  爾来、幾多の戦乱により、貴重なる当家の文献も焼失したるため、古老の言伝へによるものが主となりましたが、当家の中興の祖と伝へられる橘朝臣宗達(俗名彦右衛門宗達)より、数へて元亀元年より四百六年、宗達没してより三百三十年の永きに亘り、津家の歴史は比較的明かであります。この永い年月を津宮の宮座として、祖先の意を体し続けてこられた当家の由緒ある歴史は、私共津家一族にとって大きな誇りであり、只々祖先に対する崇敬の念が一杯であります。

高津 彦次郎 著

高津家の祖先

彦右衛門宗達 正保三年九月七日没(生年月日不明)
彦右衛門宗春 寛永十八年五月日生
久右衛門春秀 寛文三年八月二十七日生
久右衛門春重 元禄四年十二月四日生
久右衛門秀久 享保九年五月五日生
久右衛門永秀 延享元年十月十二日生
久右衛門秀富 宝暦三年九月二十一日生
弥右衛門久利 天保七年十二月五日生
久保衛門利永 文化四年七月十四日生
久右衛門利久 (此面)天保五年六月二十一日(明治三十四年五月十五日、八十五才にて没す)
津彼面 嘉永八年三月一日(大正三年二月二十八日、六十七才にて没す)

以下略

津宮、宮座職七家の由緒

官座

神社財源の管理、特定の当屋(頭屋)がある期間、神社守護のためご奉仕申し上げる。 即ち氏子中より人選して神供等をなし、祭祀を行う。氏子にて祭祀を掌りし古の遺風にして諸社に 其例多かりしも、絶家せるもの尠らず。
(神祗辞典参照)

津宮、宮座七家の名前の由来

其昔仁徳天皇が朝鮮より招かれた王仁と申す学者が、神前に梅を献じて読まれた和歌より引用され しものと伝えられる。

浪速津に咲くや この花 冬ごもり 今を春べと さくや この花

津佐久弥 通称 治郎右衛門
津 此 面     久右衛門
津 花 門     四郎兵衛
津 冬 蔭     猪 衛 門
津 木 守     源 佻
津 今 男     五右衛門
津 春 部     又右衛門

以上七家は津宮 宮座職として町籍を返上願出て津姓を名乗り、苗字帯刀を許される。

又、摂津国西成郡津村

庄 屋 久 右 衛 門
年 寄 治郎右衛門
町年寄 四 郎 兵 衛
の記録あり。

以上七家は年毎に社司及び禰宜職を交代に務め、約二百年の永きに亘り宮座職として奉仕する。

織田信長、石山本願寺攻めの時の津宮の位置と津家の状況

豊臣秀吉公、大阪城築城に際し、時の奉行片桐少将且元の命により、津宮の故地たる(大阪城現在) の地より還宮せられた。

東津村 仁徳天皇外三社
西津村 比目許曽神社

其後大阪夏の陣に際し、戦火をさけるため津一族は、一時ご神体を奉じて津宮の神田五十丁歩の在地たる河内国古市に移り、戦後西津村に帰り、比目許曽神社に一時、仁徳天皇を合祀したのである。後年仁徳天皇の信仰が氏子中にまり、遂に天皇を主神として奉齋し奉る。かくて現在に至る。
この戦火のため津一族の墓所も荒廃したるも、漸く旧地に二、三の古碑を再建して現在の位置に存す。
織田信長が石山本願寺攻めの時、顕如上人ご一行は難を逃れて津村を通過された時、津一族はこぞって顕如上人一行をご守護申し上げ、追手の軍勢に対して、現在の松屋町筋の街道に陣幕を打ち張り、張提灯を掲げて検問所を設置し、庄屋の許可なき者は津村を通過出来ぬと軍勢と押問答を繰返し、時間かせぎの間に無事顕如上人ご一行を津宮の神田たる河内国古市に落ちのびられたとあり、後年 戦火治まり、顕如上人より当時のお礼として、津家一族に対して上人ご自身のご直筆の軸とお木像を賜りましたが、其後の戦火に依り焼失したと聞く。また上人のお木像は一時松屋町の説教場に保管され、後に円城寺に預けられたが、或日、住職の智園法師が此のお木像の少しゆがみのあるのに気付き、お木像の下部を削り取って平にした。其夜、同寺院に盗賊が押入り、住職以下家族が皆殺しになった。附近の人達は智園法師がお木像を削ったので、上人のたたりがあったと云って噂した様です。
津家では智園法師の最后に深く同情して、現在の当家の墓地の一隅に埋葬し現存しています。

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